昭和45年3月27日朝御理解45節         
                              広崎 入力

御理解45節
    『 世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほど     かがむ。人間は身代ができたり、先生と言われるようになると、頭さげること     を忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
      とかく、出るくぎは打たれる。よく頭を打つというが、天で頭を打つのが一     番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱っ     たり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出るとおかげを     取りはずすぞ。』
 
 三宝様についていろいろな御理解をいただいてきましたが、三宝様というのは、ここでは大事なもの大切なものまたは尊いものという程度に、だから大事なもの大切なもの貴いものを踏みつけるということをいただきました。
 それから三宝様は実るほど、ここで言う三宝様と云うのは穀物のことですね、米とか粟とかが実るほどかがむ。人間は反対、人間は身代が出来たり先生と云われるようになると頭をさげることを忘れる。お徳がつけば頭をさがるのでなくて、人間と云うのはもう本当に困ったもんだ」というような感じがいたしますね、神様はそういう風に人間というのはチットばかりおかげを頂くともうすぐ頭をさげることを忘れると。
 財産ができたり先生といわれたりするとこんなことよかきの  ・・?ことを思う、という意味でしょうね、ここは。
 だから本当に頭をさげること、自分の心から地を低うしてないものを発見したら、これはいかんぞと本気で分からしてもらうことでしょうね。
 今日は私は「天で頭を打つのが一番恐ろしい、天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど」と仰っておられる。
 天で頭を打つと言うことは、これはどういうことかと云うと、よく申しますよね「天罰覿面(てきめん)」「天罰を蒙る」というようなことを申しますよね。信心には罰とはいわないと云いますから、神さまのお気付けと申しますかね。
 それを天で頭を打ったように痛い思いをするようなことがあるけれども、今日私は天で頭を打ということ、皆が云よるでしょう、「お金が足らんと頭が痛い」というでしょう。これなんかはある意味で天で頭を打っている事。
 仕事が忙しくて頭が痛いという人があるでしょう「もう忙しくて忙しくて」神様は「お前がすると思うから忙しい」『忙しいから追いまくられて頭が痛い、人間関係で頭が痛いという人がある、お金があり過ぎて頭が痛いという人があるでしょう。わたしは今日とにかく思うたら頭が痛い、頭痛の鬼だ、それは金があり過ぎても、仕事が忙しすぎても、これなんかは、いよいよ天で頭を打っていること。
 忙しゅうて、忙しゅうてお参りもできん、いよいよ天で頭を打っていることだから考えなければならないと思う。そういうものがだんだん積もり重なっておかげを落とすのです。「天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振り上げることはないけれども、大声で叱られたり手を振り上げられてるようなもんです。
 「油断をすな、慢心がでるとおかげを取り外すぞ」ということは、頂いているものを取り外すという意味でもありましょうが、おかげはそばまで来ているのにそれを取り外すというように取らないといけない今日の場合は。
 神様がおかげをくださろうとしている、おかげはそこまで来ているのに忙しい忙しい、頭が痛い、頭を抱えているようでは、肝心要(かんじんかなめ)、神様がおかげを下さろうとしているおかげを取り外す、ゆわゆる、頂きそこなうのです、馬鹿らしいじゃないですか。
 それを側に見ておるだけで、頂くことができない大事なものを踏みつけてはいないか、尊いもの踏んでいないか。
 たとえて云うならば、お道では仕事のことを御用御用という、御用御用で追いまわされているとは、それはもう、取っちめられようとしている前提です。御用においまくられている、忙しい忙しい「おかげをいただいています」と口ではいうけれども、おかげを頂いて忙しいなら頭が痛くなるはずないです。おかげを受けているなら、ばさら、忙しいことはないでしょう。・・・・さんでは・・けいども一月〆たところがあんなばたばたしござる時よりも自分方のほうがおかげ頂いておるといったようなおかげでなからにゃおかげではないです。
 そがんばたばたしおざらんばってん、あそこは金がだんだん残っていきよるというようなおかげ。ばたばたして残ったいきよるのは一変に必ずがっがっとやられる、掴められる御用御用と追われよるのと同じこと。
 昨日私はあるお届をさしてもらいよる時におかしな話ですけれど、鯰(なまず)のひげを頂いた。鯰のお知らせは「慢心」とおっしゃる、こう髭(ひげ)が立ててるでしょう、大きな口あけて、鯰坊主、髭でも立てることになったら恐い、鯰のことは地震を予知する生物と云われています、地震がある時は鯰が一番敏感だと云われる。地震と云うことは、天変地異、大きなこと天地がひかる、天地ですよ、大きな災難が。
 「慢心が出るとおかげを取り外すぞ」頂いているものを取り外すと云うのでなくて、そこまで来ているおかげを取り落とす、取り損なう頂き損なうと云う事。
 ちよっと今日のお話はおかしな話ですね、信心して忙しくてこたえんおかげを頂かねばならんというけれども、忙しくてこたえん頭が痛いと言うのはこんなもんじゃない、忙し過ぎていそがしすぎて毎日毎日、仕事に追いまくられておかげを頂いて有り難いですけれども、お参りする暇がございません」と云うのは、天で頭を打っている時だから頭が痛いということを云っておられる。
 「天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれども、天で頭を打つのがいちばん恐い」その一番恐いというその前まで来ているという事。
 おかげと云うのはね、そんなにばたばた、しよらんことあるけれども、神様の御用というたら神様の御用一本にさしていきよると、〆くってみるとこのようなおかげを頂いておるというのでなからなければ、そういうお陰でなからなければ、無尽蔵なおかげに繋がってこない。
 古川先生がみえた時にお話なさってたように「仕事がなくて困っていた方がおかげを頂いて大変忙しくなった、あんなに毎日お参りができていたのにお参りが出来なくなった、 そして時たま参って来て云うのには、「先生おかげを頂いてから忙しくて忙しくて、お参り出来ないほど忙しい。」それについて四神さまが仰った「それは気の毒じゃな」と仰った。
 これは私も実感いたします。「気の毒じゃなあ、そういう人には私に力がないから云うても四神様のように聞かんけれども「本当に気の毒じゃなあ」と私は云いたい。
 いくら年度末か知らないけれども年度末でばたばたせにゃならんというのは「天で頭を打っている証拠です。忙しゅうて頭が痛い、お参りする暇がないというのは気の毒なこと。今日の45節の今日分からせようとしているが大体分ったでしょう。
今日の三宝様というのは貴いもの大事なもの、または大切なものを踏みつけている、同時に人間は、三宝様は実ると確かに頭を下げるけれども人間は実れば実るほど、お金が出来ればできるほど先生と云われれば云われるようになると人間は困ったもんだ、人間は身代が出来たり先生といわれたりするようになると頭を下げることを忘れる。
 ここん処は始めてで特別に「人間は」といっとられる、穀物は反対、実るほどさがる。 だから万物を見て道理に合う信心と云われるが実るほどお金が出来ていくほど頭が下がっていくことというのは頭を下げていく、いよいよ謙虚にこのようなおかげを頂いて、ありがたしもったいなし。
 そして「天は高いから頭を打つことはないと思うけれど、天で頭を打つのが一番恐ろしい」そこん処を今日はいただいている。
 私はいっちょ頭を打ちよらんと思いよるけど、時々頭を打ちよることがわかる。それはさまざまな問題で、頭が痛いと云う時にはすでに天で頭を打っている時おかげがあり過ぎて頭が痛いという人があるでしょう。
 仕事が忙しゅうて忙しゅうて頭が痛いのは天で頭を打っている時ですから、「おかげを取り外すぞ」と本当に鯰じゃないけれども、もうぼちぼち慢心の前提で髭でも生やすようになったら、いよいよ慢心、悠々と泳いでいるようであっても、地震を予知している時であり、がばっと取り上げられるような前提を神様がお授けくださるのであるけれども、それに気付かない。
 だから忙しゅうてお参りが出来んということは、「それは気の毒な事じゃなあ」ということになるのです。
 今日私御祈念中に「御用ちょうちんを持った人が向こうから一生懸命逃げておるある人の姿をいただいた。」これは御用御用に追いまくられ、これは本当の御用、この御用は例えば捕まえられる、とつちめられる、牢屋にでも入らならん前提なんです。
 だから仕事仕事で追いまくられているという事は云うならば、天で頭を打っているときだ。そして私頂いたら、いつも45節を
頂くばってんがどこをいただくかというと「頭を打つ」というところをいただくです、最後の処を。もう信心に打ち込んでですね「神の用をたせば氏子の用は神が足してやる」と仰るような信心を頂きたいね。
 まあ一生懸命ご用いただいて、よこに電話より教会に電話するほうが早かと言う位に・・?思われるぐらいに御用でもいただきたいね、電話で「ああして下さいこうしといて下さい、お願いします」といえれるぐらいのおかげを頂きたいね。こんなら間違いないね。
 今日「おかげを取り外すぞ、慢心がでるとおかげを取り外すぞ」鯰髭(なまずひげ)を立てる事になったら、いよいよ慢心、「おかげを取り外すぞ」というのは頂いているおかげを取り外すということもあるけれども、そこまできてるおかげを神様が本当に下さろうとしているおかげを取りそこのうてしまう。と云うふうに頂かねばならんと申しましたよね
 そこでですね「信心の心得」の中に「我が子のかわいさを知りて神の氏子を守りくださることを悟れよ」という御教えがありますね。我が子のかわいさを知りて神の氏子を守りくださることを悟れよ、自分のこどもがかわゆうて堪らん。そのように神様も私たちの上を守っておって、こんな思いをもって思っておって下さることを悟れといわれるけれど、 なるはど我が子がかわいいばっつてん神様がこげんにまで思ってくださっていることは自分のこととしてなかなか頂けんでしょうが。
 子供はかわいいけれど神様をそういう実感を持って私どもを守っておって下さるというおかげわお頂けんでしょうが。
 そこで例えば昨日の朝の御理解のように「あれもおかげであり、これもおかげでありというように分かってくると実感としてひたひたとして神様をこれに感ずることが出来る、だきかかえられてることが感じられる。
 そこのおかげを頂きますと根本的にですよ、今日の御理解をいただかんで済む。「天で頭を打つぞ、打っておっても気がつかないのがいるじゃないか。御理解をいただかんで済むことが根本的に分かって来る
 神の氏子を守りくださることを、神様が私たちをこのようにして守っておってくださるんだということをわからしていただかないと根本的に。
 そこん処がわかってくるとどんな場合でも、忙しすぎて頭が痛いというとこもなからなければ金がなくて頭が痛いということもなくなる。
 昨日私はいつも8時半ごろ迎えにきてもらいますが、歯医者に毎日通わせてもらっています、山本さんが向こうに9時ちよっと過ぎについたけれども歯医者さんが昨日徹夜でまだ起きておられない。
 患者が一杯来ているのに見てござる、患者さんがあんたがおかしいのいってる処ににいった。
 いつもは二番か三番なのに昨日は5番だった。5番目だったけれども丁度十二時打つのと診てもらうのと同じだった。それからずーと3時間かかった治療に、ですから6時間おったわけです。
 山本さんに「今日はどうしたことだろうか、自動車が進んでゆくと信号がみんな赤、信号待ち、帰りもそうであった、もうみんな赤だった。きょうはおかげをいただくことがある。
 昨日あさの御理解をいただいて、お互いが青ばっかりでつーといかれる時ありがたいと思うとる、あんまりスムーズにいきよって地獄に落ちるということも有るかも知れない。 本当はねその時その時に表われたそのものがおかげだとわかる、あれもおかげであったこれもおかげであったということが分かるようになると山本さん今日は赤ばっかり何かご都合があるとばいともう云い続けてまいりました。三時に終わってかえったのが3時半、昨日は杉山さんのご親戚の御霊のお祭りがあった。十二時まで帰らんことなかとと思うとるから、朝お届けされる時に竹内の奥さんが遅くても一時頃にしたら良かろう、ということでした。
 それもあると思うから気も急かんけれども、これは神様のご都合と思うてありがたいと思うておいった、そして帰らせて頂いて直ぐ霊祭にかかりました。
 霊祭を仕え終ってしもうてから、なるほどこういうおかげばいただかんならんもんじゃけん今日一日がこげんじゃったということが分かった。そこで分かっただけでなく、はじめからおかげぞおかげぞ、これがおかげぞと云うてきた。
 普通で云うならばおかげと感じられない事を「これがおかげである、これがおかげである」と云えれるということですよね
 神様はこのようにして、例えば赤い色をもって青い色をもってどちらにしても神様がお守りくださってあることを悟れと仰るのはどのようなな場合でもおかげと実感できれるおかげ、その実感がなるほどこのようなおかげを頂くためであったと、実際におかげを頂いて「あれもおかげこれもおかげ」ということが分かる。
 あれもおかげこれもおかげと分かるようになると今日頂いた御理解は実をいうといただかんでいいと思う。
 神様を実感する、忙しゅうて忙しゅうて頭が痛いということは云わんですむ。天で頭を打つことはあるまいと思うけれど天で頭を打つのが一番怖い、その一番怖いというということが確かに手を振り上げたり大声を出したりしないから私たち気が付かんだけのこと。
 そこで私達それを分かしていただくために、自分のこの頭が考えただけでも頭が痛い、忙しくて頭が痛いというような時には、天で頭を打ちよる時と思うて猛反省させてもろうておかげをいただいてもらいたい。
 それこそ四神様ではないが「それは気の毒なことじゃ」と云われることのない信心、そんなにバタバタしよらんのに、ちっやんとおかげを頂いていきよるというおかげ。それだけじゃないそうでも普通からいうたら片っぽの家は繁盛しよるごと、片っぽの家は仕事がありよるかわからん、けいども、
一年なら一年を締めくくって見ると、片いっ方の忙しか方は忙しかばってん手形手形で追われて忙しいというような結果がもし出てくるような体験をお互い持っているでしょう。 そんなら忙しいなか方を取ったらよか、忙しいなか方といったら語弊がありますけれど、その中にでも豊かな心、神様のご都合の中にある神様のお守りを受けているという実感を感じられる信心。
 御用に追いまくられているということはもうすでに取っちめられる前提であると悟らせて頂いて、今の忙しかチットおかしいぞ、と思うて信心の方ば正して行くというか直してまいりますと、そこに適当にちょうどいい仕事が与えられる。
 忙しか忙しかといってる時は儲ける仕事もあるか知らんがガバッと損しよる仕事もしよる時です、とまあ思うていい、極端に云うと。
 それよりか、ところどころしかしよらんばってんが、ガバッと儲からせてもらう御用の方をさしてもらう方がいいでしょう。ありがたい、もったいないで
頂いていけれる。
 神の氏子を守っておって下さることを悟れと仰る。自分の子供がかわいい、こんな思いで神様が自分を守っておって下さるということを分かるいうことも、結局あれもおかげこれもおかげと分かるようにならなければ神様がこげんな思いでこんなことまでさせて神様がこげんな風なおかげを下さろうとしているんだ、守ってくださっているんだ、と分かる信心を頂かなければなりません。
 「天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが油断をすな慢心が出るとおかげを取り外すぞ」
 ここんところを強調してね、今日は違った頂きかたでご理解頂いたわけです。  どうぞ